Oct 4, 2017

備忘録的なmemo: アダム・シムジックのトーク

昨夜はドクメンタ14のアーティスティック・ディレクターのアダム・シムジック(Adam Szymczyk)のトークに足を運んだ。Depotといって、アート系のトークイベント(とくにアカデミックなディスカッション)をやっている小さなスペースだったから、案の定、立ち見が出るくらい人が集まっていた。プレスカンファレンスのように仰々しいものではなかったし、私は急遽設けられた前から2列目の席に座ったせいもあって、本人を近くに見ながら、数々の否定的な批評とともに最近の破産報道も含めて、大きな物事を動かす途方もない力がこの一人の人間を巡って行われているのかと想像したら、ひしひしと重みも感じたりした。
トークは対談形式で、対談相手はウィーンを拠点とするキュレーターのイルザ・ラフェール(Ilse Lafer)。私はまだ読んでいないけれど、ドイツ語圏のアカデミックな芸術系雑誌『TEXTE ZUR KUNST』の最新号に、サベス・ブッヘマン(Sabeth Buchmannと合同で書いたドクメンタ批評「Aus Fehlern lernenlerning from mistake、つまり「失から学ぶ」)」が掲載されている。彼女のトークの前置きを聞く限りは、”Conceptual Bigness”といって、展覧会にとどまらず、数々の出版物、パフォーマンス、トークイベント、フィルム・スクリーニング、ラジオ、テレビ番組など多面的に展開されたドクメンタ14の把握しきれなさを軸に批評したものらしい。

そのようなことを含めて始まったトークなので、作品やアーティスト云々というよりは、歴史のなかのドクメンタと今回のドクメンタ14の構造そのものの話が多かった。今回の展示の随所で過去のドクメンタへの言及が多く見られたように、彼の語り口から、そうとうリサーチし尽くしているようにも感じた(キュレーターに選ばれるとそれぞれのドクメンタに対してレビュー的なものを提出しなければいけないらしい)。そもそも1955年の一回目は、ナチスによって「頽廃芸術」と烙印を押された芸術たちの業績を再び振り返るものであったと同時に、当時の大統領がパトロネージュであったことから、ドイツとその他の世界を再び結ぼうとした政治的な意思表示でもあった。その大統領はこのドクメンタの後に、世界各地で外交を積極的にやり始めたのだそうだが、ドイツをヨーロッパに戻すためにギリシャもそこに含めれていた。歴史的にみて、ナチスドイツを含めてギリシャへの訪問はつねに政治的な身振りとして振り返られるものであるが、ギリシャの選択はその第一回目のドクメンタの立ち位置からもきている(だから西欧中心主義と言われてしまうというか、それ以上向こう側が見えていないという批判につながるのだろう。)。
そんな感じでドクメンタの歴史と、(ポーランド出身という立場から)戦後のホロコーストの歴史を詳細にわたって話していたけれど、ようはドクメンタ14がその歴史のなかで、どうゆう位置を占めるということである。しかし、シムジックはそれに対して明確な答えは避けていて、それは展覧会というかドクメンタのキューレトリアルな取り組みそのものが不明瞭なままになっていたことと通じている。「勝ち」ではなく「たくさんの声が聞こえる場所を開くこと」と言いながら、その展覧会のありさまを水に例えていて、一つ一つの水が集まって大河になったとき、そこはすでにコントロールすることができない大きなうねりができると言っていた。

トークの後半は今回のドクメンタの構造そのものの話が多かったし、20名以上にも及ぶキュレートリアルのチームにおいて、シムジックは指揮者のような立場であって、しかもドクメンタは株式会社。マネージメントの力のなさを批判する記事とかもよく見かけるけれど、ヨーロッパの大国がギリシャを搾取するように、内部の人間もself-exploitationと言っていたから、ようは大変だったんだね、という話になってしまって少し残念だったようにも思う。
あと、興味深かったというか、芸術をめぐる言説においてとても重要な議論だと思ったのは、多くの批評が「政治的である」と「(先住民系の作家が多かったから)エキゾチックである」という従来の批評(つまり「大地の魔術師」とか)を引用した型通りのものでしかなかったと言っていたことだ。オクウィ・エンヴェゾーかハラルド・ゼーマンか忘れたけれど、「footnote」という概念をラファールが持ち出したことによって、中心的な考え方に対抗するものとして、ドクメンタはその中心的なものを不在にすることによって、そのfootnoteを持ち出しながら、その不在を探していく取り組みであるとも言えるのでは、と述べていたのはとても印象的であった。グロバール・アートの議論が加速されている現在において、中心に対する周辺という規範がいまだに拭えていないなかで、一つの実践として考えられるべきものかもしれない。
とはいえ、最後に風変わりなアーティストらしい人がとんでもない質問をしていて、それでシムジックは少し喧嘩腰になっていたし、会場が揺れていた。そのアーティストいわく、ドクメンタの内容は退屈であったけれど、倒産という事実によってラディカルなものとなったと評価していて、ドイツがギリシャに対してお金をかけるなら、ギリシャの土地も買ったほうがいいとか何とか言い始めていた。
それに対して、シムジックはこんなにも多くの倒産の記事が出て批判されるのは、きっとドクメンタ全体としては見えてこないが、その小さな要素一つ一つがどこかでそのメディアを牛耳っている政治家たちに嫌な印象を与えたのでは、と話していた。

2時間弱という短い時間だったけれど、直接キュレーターの話を聞くのは彼らの取り組みを理解しやすくはなるし、レベルは全然違うけれど、同じ立場で活動をし始めたいま、彼の身振りをしっかり目にすることができたのは、いろんな点で勉強になった。
ハラルド・ゼーマンも破産して訴えられていたし、とくに私にとって2回ドクメンタを見たことはすでにその経験が歴史として繋がっていて、これから先、今回のドクメンタも歴史化されていくのであろうことを考えると、いろんな契機を与えてくれた。

Dec 5, 2016

インドネシア備忘録


 今年の夏にアーティストのステファニー・ミサとリン・グェン・フォンと始めたプロジェクトの第一弾として、インドネシアのジョグジャカルタにて展覧会が始まった(12月8日まで。詳細はこちら: Behind the Terrain)。 年末あたりに、しっかりこちらについても書きたいと思っているが、 展覧会とは別に、ジョグジャカルタについて何点か忘れない内に書き留めておきたいことがある。個人としてキュレーター的な役回りを果たすのは初めてのことであり、しかも行ったこともないインドネシアなので、ただ自分にとって目新しいことだけにすぎないことかもしれないけれど、色々考えさせられる点があった。といっても、私がジョグジャで過ごしたのは10日間程度で、展覧会の準備に予想外に手間がかかり、会った人数もグループも限られていたので、たぶんジョグジャの芸術活動のあり方の一片を何となく感じたようなものにすぎないだろうが。

   ジョグジャカルタに行く前は現地の情報を調べる余裕がなく、すでにジョグジャでアーティスト・イン・レジデンシープログラム(以下、 AIR)に参加していたステファニーから「コレクティブ」がいっぱいあるということだけ聞かされていた。森美術館で来年に開催される東南アジアに焦点を置いた展覧会の特設サイトもそうだし、今年のあいちトリエンナーレでルアンルパがオルタナティヴな学校を開くなど、インドネシアのアートについて調べればたくさんのコレクティブがすぐに見つかる。  
  私が着いたその日にギャラリーのオープニングに行くと、さっそく友人がアーティストたちを紹介してくれた。興味深かったのは、多くのアーティストは自身の名前とともに、どこどこのコレクティブに所属しているかを付け加えていたことである。些細なことだけれど、ヨーロッパに根強い個人主義と比較すれば、コレクティブ内で生まれる主体を基準に活動をするあり方はとても不思議な響きを持っていたように思う。特にジョグジャはインドネシアのなかでも若い世代にとってコレクティブが重要であるという認識は広く共有されていて、バンドゥなどの他の都市は「個人主義が強くて、お互いに助けようとしない」と話す人もいた。ジョグジャのコレクティブは、助成金の取得や海外への進出する道筋も含めて、本人たちいわく、アーティストとして生き延びための手段のようなものだそう(だからこそ一方で、コレクティブ内で順番に助成金やAIRを受けているという側面もあるらしい)。アーティストは美大を出ている人も多いが、インドネシアで美大に行くのは一番安く学士が取れる手段でもあるとも聞いたので、どこまで美大に価値が置かれているかはよくわからなかったが、若い世代の多くが口にしたのはコレクティブと同時に「Infomal」な学びや教育がコレクティブ内で出来るというようなものだった(学校では、助成金についてなんて教えてくれないということでもある)。

 とはいえ、このようなコレクティブのあり方に距離を置いている人もいる。私たちの展覧会は基本的には自主企画で、会場であるStudio Kalahanは昨年のヴェネチア・ビエンナーレでインドネシア館代表を務めたヘリ・ドノのスタジオである。彼の好意でスタジオの一部のコンクリートでできたオープンエアなスペースを使わせてもらえることになったのだ。ヘリ・ドノは彼の国際的な知名度が生み出すイメージとはまた違った印象を持つ人で、スタジオ名である「カラハン」は「always to lose」という意味合いを持っているそう。自ら「studio in progress」と言うほど、自分たち(スタジオには住み込みの労働者がいて、彼らが建物を作っているし、ヘリ・ドノとは家族みたいな関係性だと思われる)の手でスタジオを数年かけて作り続けている。ヘリ・ドノの作品を見るためにスタジオ訪問者もたくさんいるし、毎週白装束での格闘技(?)クラスが無料で開催されていたり、そして私みたいな全く関係ないひとたちの展覧会までホストしてくれたりもするという、とても開放感のある場所である。いつもスタジオの入り口には数名の労働者や訪問者がベンチに座ってのんびり会話していたりする。ここでもヘリが口にしていたのは「informal leaning」という言葉で、こうゆう場が実際にどれくらいあるかは未知だけれど、ある強い特殊なコミュニティが作られているのは数日の滞在からもよくわかった。もちろん、スタジオにはヘリ・ドノの数々のインスタレーション作品が見られるし、おそらく彼自身の分身として現れる、歴史の中に刻まれた反復する身体の強迫観念的ともいえる彫刻群を見るのは、伝統的な文化のあり方と一方で政治的に影響を受け続けるあり方を再考させる(ちなみに、スタジオにはスカルノの写真が貼られていたりもする)。
 私がいた期間中だけでも、インドとシンガポールでの展示でほとんどヘリ・ドノは不在であったが、数回交わした会話のなかには、1997年にハンス・ウルリッヒ・オブリストとホウ・ハンルがキュレーションした『Cities on the Move』がウィーンのゼセッションで開催された時の話があった。まだ調査しきれていない展覧会の一つだけれど、今回の展覧会も各所でいろんなものを吸収しながら巡回することを一つの目的としていたので、ヘリからこの話を聞いた時は少なからずつながりを感じた。
 ちなみに、インドネシア式なのかジョグジャ式なのかわからないけれど、ジョグジャの展覧会のオープニングは本当に意味で「セレモニー」をするのが重要らしく、展覧会をオフィシエイト(日本語で何というのかわからないけれど、展覧会を紹介してくれるちょっと格上の人)してくれる人が必要とのことで紹介されたのが、Fendry Ekelというペインター。彼はジョグジャ出身だけれど、アムステルダムで育っており(もちろん植民地時代の関係性によってインドネシアからオランダに勉強しにいく人は多い)、現在はベルリンとジョグジャカルタを行ったり来たりしているそう。展覧会前にミーティングを設けてもらって、彼がオーガナイズしているギャラリーも見せてもらったりもした。彼いわく、若い世代のコレクティブは個人としての責任がなさ過ぎるという。今でこそコレクティブ内でお互いに助け合っているかもしれないが、一方で彼らは個人として活動しているのであり、もしコレクティブ内でキャリアや金銭的な格差ができたらどう対処していくのか? あるいは、コレクティブ以上の目指すものが少ないと言っていたのも、外と内で揉まれる複雑な心境を垣間見たようだった。
 これらの事例だけでジョグジャカルタのシーンを語ることはできないけれど(私はそもそもアートシーンとかいうものを信じていない)、それぞれ三者に分断のようなものを感じたのも素直な気持ちである。若い世代はヘリ・ドノの成功者としてのあり方に疑問というか別次元の人のようなに感じているようだったし、フェンドリーのスペースの存在を知らない人も多かった。  
 また、湿気が強く、室内でも外気の影響を受け続ける環境下でどのように芸術が維持されていくのか、短期間ながらあらゆる場面を駆け巡ったインドネシアだった。

Jan 5, 2016

公共のために:Krzysztof Wodiczko回顧展

 昨年の夏は、日本では集団的自衛権を中心とした安全保障に関わる法整備が世間一般で大きな話題になり、中東で発生した難民の大規模な移動が世界に衝撃を与え、いまだに収拾がついていないどころか泥沼化している。両者ともに「戦争」に関わる問題である。「安全のために、国のために」— 私たちの生存を保証してくれるかのような言葉によって、大規模な(国家による大量殺人である)「戦争」は正当化され続けてきている。そして、「戦争」はいつでもその社会の末端にいる人々をも犠牲にする。第二次世界大戦終戦後70年という節目の昨年、多くの戦争体験者や退役軍人の話を目にしたし、慰安婦問題が無理矢理解決に追い込まれているように、傷つき社会に切り捨てられた人々が無数存在してきていることも事実として存在している。

  これらの問題と長年向き合ってきたアーティストの一人に、クシシュトフ・ヴォディチコ(Krzysztof Wodiczko)がいる。1943年、第二次世界大戦の最中にポーランドで生まれたヴォディチコは、彼自身もカナダやアメリカに移り住みながら、社会における少数者、例えば戦争の被害者、退役軍人、移民、ホームレスなど、社会の中で耐え難い状況に置かれていながら積極的な発言権を持たない人々とともにプロジェクトを行ってきている。石油利権のために戦争を起こしている資本家や、戦争兵器に関わる機関を断罪するような作品も発表してきており、近年は、世界各地で公共空間にあるモニュメントや建築物に、一般的で通俗的な歴史に隠された真実や抑圧された人々の声を投影することによって、その歴史を問い直すようなプロジェクトが有名である。
  日本においては美術の分野で平和に貢献した作家に与えられるヒロシマ賞を1998年に受賞し、原爆ドームに原爆被害者や遺族が語ったさいの手の様子を投影して、まるで原爆ドームが彼らの歴史を語っているかのようなプロジェクトを行っている。また、東日本大震災直後の横浜トリエンナーレの連携プログラムの一つとして、横浜国立大学の室井尚氏と共同でシンポジウム「アートと戦争」を開催したり、被災地の人々のインタビューのプロジェクションなどを行ったりしてきている。

Aug 1, 2015

The world is round/世界はまるい 1



The world is round. Almost. With some cracks here and there.
世界はまるい。ほとんど。あちこちに裂け目があるけれど。

  ウィーンから電車で2時間半、ザルツブルグで行われていたパフォーミング・アート・フェスティバル『Sommerszene』を観に行ってきた。上記の言葉は、プログラムのひとつであった展覧会《Toward the other side of the world(世界の向こう側へ)》のプレスリリースの最後に書かれていた一節である。展覧会については後に改めて書くが、ここではこの展覧会と同時開催されていた松根充和の新作パフォーマンス《Dance, if you want to enter my country!(入国したければ、踊りなさい!)》について見てみたい。


Jun 5, 2015

旅行記:強制収容所とパルチザンのこと

 ウィーン美術アカデミーのポスト・コンセプチュアル・プラクティスというクラスの3日間の旅行に同行をしてきた。美術大学の旅行だからといって美術館やギャラリーを訪れて芸術を学ぶのではなく、今回は第二次世界大戦終戦から70年という節目に合わせて、オーストリア国内、特にスロベニア国境付近にあたる強制収容所とパルチザンの拠点をめぐるという非常に重いものであった。この国境付近は豊かな山々に囲まれた場所であり、その自然の美しさに感嘆する一方で、それとは対照的な悲惨な歴史的事実をどう受け止めていけばよいのか、その答えはいまでも私の中で保留になっている。