Dec 5, 2016

インドネシア備忘録


 今年の夏にアーティストのステファニー・ミサとリン・グェン・フォンと始めたプロジェクトの第一弾として、インドネシアのジョグジャカルタにて展覧会が始まった(12月8日まで。詳細はこちら: Behind the Terrain)。 年末あたりに、しっかりこちらについても書きたいと思っているが、 展覧会とは別に、ジョグジャカルタについて何点か忘れない内に書き留めておきたいことがある。個人としてキュレーター的な役回りを果たすのは初めてのことであり、しかも行ったこともないインドネシアなので、ただ自分にとって目新しいことだけにすぎないことかもしれないけれど、色々考えさせられる点があった。といっても、私がジョグジャで過ごしたのは10日間程度で、展覧会の準備に予想外に手間がかかり、会った人数もグループも限られていたので、たぶんジョグジャの芸術活動のあり方の一片を何となく感じたようなものにすぎないだろうが。

   ジョグジャカルタに行く前は現地の情報を調べる余裕がなく、すでにジョグジャでアーティスト・イン・レジデンシープログラム(以下、 AIR)に参加していたステファニーから「コレクティブ」がいっぱいあるということだけ聞かされていた。森美術館で来年に開催される東南アジアに焦点を置いた展覧会の特設サイトもそうだし、今年のあいちトリエンナーレでルアンルパがオルタナティヴな学校を開くなど、インドネシアのアートについて調べればたくさんのコレクティブがすぐに見つかる。  
  私が着いたその日にギャラリーのオープニングに行くと、さっそく友人がアーティストたちを紹介してくれた。興味深かったのは、多くのアーティストは自身の名前とともに、どこどこのコレクティブに所属しているかを付け加えていたことである。些細なことだけれど、ヨーロッパに根強い個人主義と比較すれば、コレクティブ内で生まれる主体を基準に活動をするあり方はとても不思議な響きを持っていたように思う。特にジョグジャはインドネシアのなかでも若い世代にとってコレクティブが重要であるという認識は広く共有されていて、バンドゥなどの他の都市は「個人主義が強くて、お互いに助けようとしない」と話す人もいた。ジョグジャのコレクティブは、助成金の取得や海外への進出する道筋も含めて、本人たちいわく、アーティストとして生き延びための手段のようなものだそう(だからこそ一方で、コレクティブ内で順番に助成金やAIRを受けているという側面もあるらしい)。アーティストは美大を出ている人も多いが、インドネシアで美大に行くのは一番安く学士が取れる手段でもあるとも聞いたので、どこまで美大に価値が置かれているかはよくわからなかったが、若い世代の多くが口にしたのはコレクティブと同時に「Infomal」な学びや教育がコレクティブ内で出来るというようなものだった(学校では、助成金についてなんて教えてくれないということでもある)。

 とはいえ、このようなコレクティブのあり方に距離を置いている人もいる。私たちの展覧会は基本的には自主企画で、会場であるStudio Kalahanは昨年のヴェネチア・ビエンナーレでインドネシア館代表を務めたヘリ・ドノのスタジオである。彼の好意でスタジオの一部のコンクリートでできたオープンエアなスペースを使わせてもらえることになったのだ。ヘリ・ドノは彼の国際的な知名度が生み出すイメージとはまた違った印象を持つ人で、スタジオ名である「カラハン」は「always to lose」という意味合いを持っているそう。自ら「studio in progress」と言うほど、自分たち(スタジオには住み込みの労働者がいて、彼らが建物を作っているし、ヘリ・ドノとは家族みたいな関係性だと思われる)の手でスタジオを数年かけて作り続けている。ヘリ・ドノの作品を見るためにスタジオ訪問者もたくさんいるし、毎週白装束での格闘技(?)クラスが無料で開催されていたり、そして私みたいな全く関係ないひとたちの展覧会までホストしてくれたりもするという、とても開放感のある場所である。いつもスタジオの入り口には数名の労働者や訪問者がベンチに座ってのんびり会話していたりする。ここでもヘリが口にしていたのは「informal leaning」という言葉で、こうゆう場が実際にどれくらいあるかは未知だけれど、ある強い特殊なコミュニティが作られているのは数日の滞在からもよくわかった。もちろん、スタジオにはヘリ・ドノの数々のインスタレーション作品が見られるし、おそらく彼自身の分身として現れる、歴史の中に刻まれた反復する身体の強迫観念的ともいえる彫刻群を見るのは、伝統的な文化のあり方と一方で政治的に影響を受け続けるあり方を再考させる(ちなみに、スタジオにはスカルノの写真が貼られていたりもする)。
 私がいた期間中だけでも、インドとシンガポールでの展示でほとんどヘリ・ドノは不在であったが、数回交わした会話のなかには、1997年にハンス・ウルリッヒ・オブリストとホウ・ハンルがキュレーションした『Cities on the Move』がウィーンのゼセッションで開催された時の話があった。まだ調査しきれていない展覧会の一つだけれど、今回の展覧会も各所でいろんなものを吸収しながら巡回することを一つの目的としていたので、ヘリからこの話を聞いた時は少なからずつながりを感じた。
 ちなみに、インドネシア式なのかジョグジャ式なのかわからないけれど、ジョグジャの展覧会のオープニングは本当に意味で「セレモニー」をするのが重要らしく、展覧会をオフィシエイト(日本語で何というのかわからないけれど、展覧会を紹介してくれるちょっと格上の人)してくれる人が必要とのことで紹介されたのが、Fendry Ekelというペインター。彼はジョグジャ出身だけれど、アムステルダムで育っており(もちろん植民地時代の関係性によってインドネシアからオランダに勉強しにいく人は多い)、現在はベルリンとジョグジャカルタを行ったり来たりしているそう。展覧会前にミーティングを設けてもらって、彼がオーガナイズしているギャラリーも見せてもらったりもした。彼いわく、若い世代のコレクティブは個人としての責任がなさ過ぎるという。今でこそコレクティブ内でお互いに助け合っているかもしれないが、一方で彼らは個人として活動しているのであり、もしコレクティブ内でキャリアや金銭的な格差ができたらどう対処していくのか? あるいは、コレクティブ以上の目指すものが少ないと言っていたのも、外と内で揉まれる複雑な心境を垣間見たようだった。
 これらの事例だけでジョグジャカルタのシーンを語ることはできないけれど(私はそもそもアートシーンとかいうものを信じていない)、それぞれ三者に分断のようなものを感じたのも素直な気持ちである。若い世代はヘリ・ドノの成功者としてのあり方に疑問というか別次元の人のようなに感じているようだったし、フェンドリーのスペースの存在を知らない人も多かった。  
 また、湿気が強く、室内でも外気の影響を受け続ける環境下でどのように芸術が維持されていくのか、短期間ながらあらゆる場面を駆け巡ったインドネシアだった。

Jan 5, 2016

公共のために:Krzysztof Wodiczko回顧展

 昨年の夏は、日本では集団的自衛権を中心とした安全保障に関わる法整備が世間一般で大きな話題になり、中東で発生した難民の大規模な移動が世界に衝撃を与え、いまだに収拾がついていないどころか泥沼化している。両者ともに「戦争」に関わる問題である。「安全のために、国のために」— 私たちの生存を保証してくれるかのような言葉によって、大規模な(国家による大量殺人である)「戦争」は正当化され続けてきている。そして、「戦争」はいつでもその社会の末端にいる人々をも犠牲にする。第二次世界大戦終戦後70年という節目の昨年、多くの戦争体験者や退役軍人の話を目にしたし、慰安婦問題が無理矢理解決に追い込まれているように、傷つき社会に切り捨てられた人々が無数存在してきていることも事実として存在している。

  これらの問題と長年向き合ってきたアーティストの一人に、クシシュトフ・ヴォディチコ(Krzysztof Wodiczko)がいる。1943年、第二次世界大戦の最中にポーランドで生まれたヴォディチコは、彼自身もカナダやアメリカに移り住みながら、社会における少数者、例えば戦争の被害者、退役軍人、移民、ホームレスなど、社会の中で耐え難い状況に置かれていながら積極的な発言権を持たない人々とともにプロジェクトを行ってきている。石油利権のために戦争を起こしている資本家や、戦争兵器に関わる機関を断罪するような作品も発表してきており、近年は、世界各地で公共空間にあるモニュメントや建築物に、一般的で通俗的な歴史に隠された真実や抑圧された人々の声を投影することによって、その歴史を問い直すようなプロジェクトが有名である。
  日本においては美術の分野で平和に貢献した作家に与えられるヒロシマ賞を1998年に受賞し、原爆ドームに原爆被害者や遺族が語ったさいの手の様子を投影して、まるで原爆ドームが彼らの歴史を語っているかのようなプロジェクトを行っている。また、東日本大震災直後の横浜トリエンナーレの連携プログラムの一つとして、横浜国立大学の室井尚氏と共同でシンポジウム「アートと戦争」を開催したり、被災地の人々のインタビューのプロジェクションなどを行ったりしてきている。