Mar 6, 2015

不自由なのは誰か: Jerome Bel《Disabled Theater》

 ロンドンでジェローム・ベル(Jérome Bel)の《Disabled Theater》(初演2012年)を観る機会があった。演劇や劇場の構造と限界を示唆しながらも、それを超え出してしまう身体のエネルギーのようなものが感じられ、さらにそれを感じる際の私たちの高揚感と気まずさが瞬時に交差する、次から次へと気持ちが移り変わっていくような素晴らしい舞台であったと思う。観る前は、「障害者の演劇」という社会的な枠組付けが私の中で一人歩きしていたけれど、実際のパフォーマンスは、それに直面した時の複雑な諸問題をきわめて豊かに体験させてくれる入り組んだ作品であり、その複雑さがまさに演劇の「不能性/できないということ(disable)」を露呈しているように思われた。
 ジェローム・ベルはダンサーとして活動した後に振付家に転向し、バレエやモダンダンスのような身体的に高度な技術を要するもの、あるいは舞台美術におけるスペクタクルな要素を排して、劇場の構造やダンサー、観客といった様々な関係性を問い直すような作品を発表してきている。本作は発達障がいや精神障がいを持った者がプロフェッショナルに役者活動をする劇団Theater Hora(スイス拠点)とのコラボレーションのために作られた作品である。パフォーマンス作品が多かった前回のドクメンタ13(2012年)の中でも特に話題になっていたもので、2012年に発表して以来世界各地で再演されている。私が見たのはアートフェアFrieze Londonの公式プログラムとして再演されたものである。

 劇場に入ると、舞台上には7脚のパイプ椅子と中央にスタンドマイクが置かれているだけであり、舞台袖には音響を担当し、指示を与える女性が一人座っている。彼女のスイス・ドイツ語とその英語訳のアナウンスパフォーマーに指示が与えられることによって、この作品は進行する。作品の流れとしては、「一人ずつ舞台上に出て一分間そこにいる」、「名前・年齢・職業を述べる」、「自分が持っているハンディキャップについて述べる」、「好きな曲でダンスを踊る」、「作品についてどう思っているか述べる」という指示が与えられ、7人のパフォーマーが一人ずつマイクの前でその指示に従っていくというものである。それだけなのだが、こう書くことだけでどこかネタバラシをしてしまうような罪悪感を感じてしまうのは、この流れこそが、この作品の重要な仕掛けになっているということによるのだろう。
 「一人ずつ舞台上に出て一分間そこにいる」という指示を与えられたパフォーマーたちは、マイクの前に立って何かを発言するわけでもなくただひたすら観客を見つめているだけである。にも関わらず、私たち観客はなぜか構えてしまう。彼らは外見だけでダウン症とわかる人もいれば、少し太り気味に見えるだけの人、 特に何も問題がないように見える人もいる。リハーサル時のような動きやすい格好をしている人もいれば、ネクタイを締めておめかししているような人もいる。 観客は自分たちが一体どのような状況下にいるのかがわからない上に、ただ舞台上から彼らが私たちを見つめてくるだけなのに、まるで何かの挑戦状のようなものに感じられ、これからどんなことが待ち受けているのかと思うと不安になってくる。
 次の「名前・年齢・職業を述べる」という指示では、彼ら全員がそれぞれ「俳優(Schauspieler / Schauspielerin)」であると述べる。実際のところ、パフォーマーたち全員は劇団Theater Horaに所属しており、俳優であることは確かに間違いはない。しかし、彼らが俳優であるということを、舞台上で一人一人があえて主張することは、この演劇が台本上のシナリオなのか、それとも彼らが本当に指示に従って素直に個人的なことを述べているのか、この曖昧さを抱えながら作品と向き合うことを観客に強いるのである。
 この印象は「自分が持っているハンディキャップについて述べる」という指示においてさらに強められる。ダウン症から記憶障がい、指を口に加えていないと落ち着かない・・・など、それぞれが持つ障がいの告白と、それに対する周りの反応(自分は気にしていないけれどいつも母親を困らせているとか、初めて会った人が奇妙に思うなど)を淡々と、あるいは面白おかしくしゃべるのである。彼らは何かを演じているかもしれないし、単純に自分のその能力について告白していかもしれないし、意図的なのか無作為なのかを判断することができな い状況に観客は陥ってしまう。
 「障害」というものを認識するとき私たちがどこか構えてしまうのは、彼らの持つ差異を認識するとともに、その差異に基づいて自分たちがマジョリティであることを再び確認してしまうからであり、そこから逃れることは出来ない。それゆえ、あからさまに本人から「不能性 (disability)」を告白されることは、観客自身の立場を逆に思案させるのである。同時に、この作品はこのような複雑な状況を提示しながらも、その状況を宙づりにする。
 「好きな曲でダンスを踊る」という指示では、彼らはそれぞれパフォーマーとしての身体的な個性を発揮して私たちを魅了していく。各々が好きな曲を選びそれにあわせてダンスを踊る。しかし全員ではなく、あらかじめジェローム・ベルによって選別された5人だけがダンスの発表をするというものであ。ヒップホップのようなダンスから、履いていた靴下を片腕にはめて踊ったり、美しい長い金髪を振り回したり、観客は手を叩き始め、中には一緒になって自らの身体を動かす人もいるなど、会場は一気に熱狂した雰囲気になった。彼らは美しいダンスをするわけでもなく、身体的に修練された肉体美を見せるわけでもない。単純に、私たちはその身体から“自然”と出ているような身体エネルギーに感動してしまうのである。しかし、彼らが障がい者で役者でもあるという宙ぶらりんの中で、それさえも“自然”なことなのかどうか判断することは難しい。
 そうだとしても、私たちが観ているのは、マイ クの前で話す身体から溢れ出るような何かよくわからないエネルギーのようなものの表出でしかない。結局のところは、彼らの「役者」としての力が圧倒的に私たちを魅了するのである。 

 そして最後の「作品についてどう思っているか述べる」という指示は、作品を受け取る側をさらに混乱に陥らせるものである。その圧倒的な「役者」としての力を目の前にしたとしても、「障害者」という言葉にまとわりつく逃れられない疑問や複雑な思いがパフォーマー自身によってあからさまに提出されてくるのである。

— お母さんは、僕の障がいを笑いものにしているといって、この作品について良いと思っていいないし怒っているけど、お姉ちゃんはいい作品って言ってくれたよ。
— この作品はストーリーもないし普通の演劇とは違う。
ジェロームはいい人。だからこの作品も好き。

  このような作品に対する率直な疑問や彼らが抱く複雑な思いは、私たち観客が感じていた一種の高揚感と混乱とに明らかに結びついている。誰もが肯定的にしろ、否定的にしろ、上記のような意見をもとにこの作品の複雑さとパフォーマンスの是非について問い直しを行わざるをえない。しかし、彼ら自身がこのような問いを発することによって、彼らが私たちの考えを見透かしているように、その高揚感から距離を取らせ、高揚感とともに気まずい現実を思い出させるような効果を持っている。
 さらに、ここで終わるかと思いき や、残り2人のダンスも発表するという指示が入る。選抜ではなく結局全員やるのかという落胆とともに、この最後のダンスがなんとも後味の悪い混乱した状態を引き起こした。一人目のネクタイを締めた男性は、パフォーマンスを通して少し引っ込み思案で固い人という印象であったが、あまりにもその印象とかけ離れた狂ったように激しいダンスをしたのである。そして、もう一人はヒートアップしすぎたのか、マスターベーションを思わせる動きをして、誰もが唖然とするような凍りついた空気を作り出したのである。
 その時、会場はその熱狂から目を覚まさせられるようになる。高揚感は瞬く間に消え去り、日常生活で感じていた障がい者の突拍子もない行動やわけのわからない動きを思い浮かべることになる。


 しかし、これはそれでも、あくまで「舞台上」の出来事なのだ。その フィクション性を維持しながら、現実と触れているかいないのかわからないところにこの作品は位置している。椅子に座って一人ずつ発表する形式は、ワークショップを思い浮かばせるが、ワークショップで往々にしてある観ている側のつまらなさというものは一切存在しない。残るのは、熱狂したと同時に気まずさを持った観客一人一人の心の中の複雑な葛藤であり、それを知っている役者のしたたかな強さだけであった。
 障害者だけでなく、移民や、ゲイといったマイノリティが舞台や視覚芸術の中に当事者として登場したり、表象されたりする場合にきまって問題になるのは、彼らの存在が現実的に倫理的な問題をはらんでいるとされているからである。しかし、それらの否定できない問題を浮き彫りにしたからといって芸術作品が素晴らしくなるわけではないし、社会的に意味が出てくるのはない。本作品は 演劇という現実とフィクションの間で、単なる「多様性の尊重」といったものに留まらせず、複雑な心境がいかに構築されていくのかということを観客自身の内部に露呈させていくのである。それは、時にはとてつもない居心地の悪さをもたらすのであって、その居心地の悪さこそが現実とフィクションとの境界を曖昧に しているのである。なぜなら、演劇が終わってもその居心地の悪さは残り続けてしまうのであり、決して演劇の中に完結するようなものではないからである。



公演後のディスカッションの様子


 =公演情報============
Jérôme Bel & Theater HORA《Disabled Theater》
日時:10月15日(木)20 時
場所:Shaw Theatre(ロンドン)

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