Apr 25, 2015

本質的なものか、ナイーブさか:poets and artists


 ゼセッション(Secession : ウィーン分離派会館)で開催されていた展覧会『poets and artists』は、アーティストのウーゴ・ロンディノーネ(Ugo Ronidnone)がキュレーターとして組織したものであり、彼にとっては、『the third mind』(Palais de Tokyo、パリ、2007年)、『the spirit level』(Gladstone Gallery、ニューヨーク、2011年)に続く3回目の展覧会である。タイトルに「詩人」という言葉を採用しているが、必ずしも詩人や詩に特化した展覧会ではなく、ロンディノーネによって地理的・時間的な制限なしに選ばれた参加作家15人の中ではジョン・ギオーノ(John Giorno)のみが詩人として参加をしているにすぎなかった。ギオーノの《Dial-A-Poem》(1969年)は、ある特定の番号に電話をすると自 動応答装置に繋がり、そこに録音されてあった詩を聞くことができるというものである。会場の一部屋には黒電話が数台置かれており、受話器を取ってダイヤル を回すと、ギオーノがVienna Poetry Schoolと特別にコラボレーションした30編の詩を聞くことができる。ちなみに、会場の外壁に掛けられたビルボードには電話番号[+43 (0)1 58 50 433]が書かれており、そこに電話をすると同様に詩を聞くことができるようになっていた。電話を通してのみ聞こえてくる詩は完全な「音」だけであり、相互のコミュニケーションツールとしての電話ではなく、一方方向的に鑑賞者に送り届けられる音声である。自動的に流れてくるので、文字として書かれたものよりも発せられた言葉に瞬時に対応する必要があり、その内容よりも音声やリズム、トーンの方に観客の注意が向かうことになる。
façade Secession, 2015, Photo: Jorit Aust
 この作品の他には、特に言葉や言語を使った作品を見当たらなく、ギオーノ以外のすべての部屋は基本的には彫刻作品と平面作品の組み合わせによって構成されていた。この展覧会の大きな特徴の一つは、ゼセッション唯一の常設展であるクリムト(Gustav Klimt)の作品《Beethoven Frieze》(1901年)をそのまま展覧会の一部として扱っていたことである。まずは、出品作品について見ていくが、クリムトの作品はこの展覧会の中でも重要な位置付けをされていたように思う。
 会場の中でも一番大きな部屋には、ジャスティン・マサリー(Justin Matherly)の先史時代の巨大なモニュメントを思い起こさせるコンクリート製の彫刻(2013年)と、ボブ・ロウ(Bob Low)の1950年代後半から70年代に作られた白地に黒い線や日付が描かれたミニマルな絵画が並べられていた。マサリーは遺跡や発掘現場から見つかったモニュメントの写真やスケッチから彫刻の型を作っているが、表面のコンクリートからは型として使われている素材がむき出しになっているなど、最終的な仕上がりは意図的に雑なものにしている。特定のモニュメントを参照しながらも、その元々の姿を復元するのではなく、風化した現在の様子をさらに劣化した状態で再現することは、過去の芸術として巨大なモニュメントが普遍的で超越的な象徴として存在していた一方で、それが一時的であったに過ぎないことを示す。また、アメリカの純粋なミニマリストたちと違って、ロウのミニマルな絵画は実際の風景という具象的なモチーフを下敷きにしている。初期のドローイングの木や家といった要素はどんどんと簡略化され端に追いやられていき、ペインティングではほとんどの部分を空白として残し、それを囲むように支持体の縁に簡素な線を引くだけでその風景を描写するようになる。
installation view, Photo: Jorit Aust
ジョージオ・グリファ(Giorgio Griffa)のパステル調のカラフルなキャンバス地の作品は、ミカエラ・アイシュヴァルド(Michaela Eichwald)の身の回りの物をアクリル樹脂で手の形のようなものに固められた彫刻と並んでいた。アインシュヴァルドにとって、人口樹脂とラッカーによって固められたオブジェは、様々な素材や既製品を収集してそれを選別していくという制作過程そのものであり、制作における思考のタイムカプセルのようなものである。中西夏之も同様に使い古した時計やゴミのようなものを卵型に固めた《コンパクト・オブジェ》(1965年〜)を作っているが、中西の作品とは違って彼女の彫刻はアクリルで固められたものがその他の土台となる物体と接合されており、閉じられたものよりは彼女の身のまりの延長線上として立ち現れる。

installation view, Photo: Jorit Aust
今年のヴェニス・ビエンナーレでのオーストリア館を代表するハイモ・ツォーバニック(Heimo Zobernig)の80年代の初期作品である段ボールの彫刻作品は、丸や四角の形が幾何学的に組み合わされた後に、合成エナメルで真っ黒に塗られたものである。遠くで見ると鉄製の無機質な彫刻に見えるが、近くで見るとそれが段ボールの簡易な素材であることがわかる。その彫刻と一緒に、壁にはドナルド・エヴァンズ(Donald Evans)による架空の国の切手が多数並べられていた。一枚一枚鉛筆、水彩、インクで描かれた切手の発行元は彼の訪れた国の名前や友人たちの名前に由来しているが、その切手を実際にハガキや封筒に貼ることによって、それは架空のコミュニケーションへと鑑賞者を導いていく。
installation view, Photo: Jorit Aust
オーストリアのネオジオとして有名なジェルワルド・ロッケンシャウプ(Gerwald Rockenschaub)の幾何学的で小ぶりな絵画はフリッツ・パンサー(Fritz Panzer)の不安定なワイヤーで作られた椅子の彫刻と並べられていた。ロッケンシャウプの絵画が明快な印象で与える一方で、パンサーの椅子はワイヤーで輪郭のみが示され、その周りには歪んだワイヤーが絡みついている。そのため、確固として存在する物質の特性を解きほどいていくのであり、そこに現前している一方で存在していないような、そのような間に佇むのである。
installation view, Photo: Jorit Aust
インクジェット印刷の上にエアブラシ・筆を使って絵画を仕上げるミカエル・ウィリアムズ(Michael Williams)は、アンドラ・ウースタ(Andra Ursuta)の彼女自身のお尻を型取りしたものに派手に彩色した彫刻と並べられていた。ウィリアムズの絵画は奇妙でサイケデリックな色調であり、自身の手によるアニメやマンガ、空想的な走り書きが重なり合って、お互いに意味合いを干渉しあう。一方で、ウースタの下着を付けた上向きのお尻は椅子のような脚が付けられているために家具のようにも見えるが、上から見下ろすように派手に彩色されたその彫刻は自身の恥辱であるとともに、自分の身体を擬似的に彩る快楽的な行為にも思われる。
installation view, Photo: Jorit Aust
宗教的な思考やユングの元型(Archetypes)に関心をよせるフランツ・ハルトラウア(Fritz Hartlauer)の小さなユニットの集合体である小ぶりな彫刻は、タナム・シルビラーゼ(Tamuna Sirbiladze)のダイナミックな表現主義的なキャンバス地と並べられている。ハルトラウアの小さいけれども世界そのもののユニバーサルな体系を追求する芸術の一方で、シルビラーゼの表現は裸の人間が血流、排便、嘔吐といったポルノグラフィな場面を描いており、素早く絵描かれた線は具象と抽象の間で揺れ動く情動的な表現である。

 そして最後の部屋がクリムトの作品が置いてある部屋である。その前に、本展を企画したロンディノーネの意図について考えてみたい。プレススリリースによると、ロンディノーネによる「詩人と芸術家」とは、芸術はスピリチュアルで超越的な力を持つという彼の信念に基づいて、視覚芸術と叙情的な詩との共通項としての「創造性」を取り上げたものである。


poets and artist express a view of the world as a collage of passing fragments.
there is no bigger picture or a linear logic here, only transitory images and words, seen as if rushing past the windows of a train.
(詩人とアーティストは過ぎ行く断片のコラージュとしての世界の見方を表現する。
ここには大きな絵やそれらを結ぶ線的な論理はなく、慌ただしく過ぎていく電車の窓のように通り過ぎるイメージと言葉があるだけである。) —プレスリリースより
 
 彼の言葉からわかるのは、詩の言語的な要素に焦点を当てるのではなく、むしろ感情的・直感的に理解される芸術の本質的に言語化不可能な部分を捉え、固定されることのない世界をいかに表現するのかという芸術一般に関わる問いに焦点を当てているということである。昨今の芸術を取り巻く環境を考えれば、少しばかりナイーブな印象をもってしまうが、クリムトの作品をその展覧会の一つの要素として取り入れることで、過去から連綿と続く芸術の探求の中にその力を見出すことを促しているように考えられる。
Gustav Klimt, The Beethoven Frieze: The Longing for Happiness Finds Repose in Poetry
1902年にウィーン分離派の中心人物であったヨーゼフ・ホフマン(Josef Hoffmann)の指示のもと、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)に捧げられた展覧会の出品作品として公開されたクリムトのこの作品は、ベートーヴェンの《交響曲第九番》とリヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)による「第九」解釈を表現した壁画である。左側の第一場面「Sehnsucht nach Glück(幸福への憧れ)」は、人生の苦悩を象徴した裸の男女が黄金の鎧を着た騎士に助けを請う場面であり、この騎士は人類を代表して幸福を探求する。中央の壁の第二場面「feindlichen Gewalten(敵対する勢力)」は、ギリシャ神話に登場する人間を誘惑したり災いをもたらしたりする怪物、「病気・狂気・死」を示す女性が描かれるなど人類に敵対する危険や誘惑、生命における負の場面が描かれている。そして最後の右壁の第三場面「die Sehnsucht nach Glück ... Stillung in der Poesie(幸福への憧れ...詩における慰め)」は、まさに芸術としての「詩」を象徴したものであり、人類の幸福への憧れは詩の中にその慰めを見出すというものである。第九の最後を飾る《歓喜の歌》を引用した場面では、抱擁し接吻する男女が、天使のコーラス、つまり「芸術」によって祝福を受けている。当時は「卑猥で醜悪」「ベートーヴェンへの冒涜」だと批判された作品ではあるが、社会の権威が宗教から芸術へとシフトしていき、さらには19世紀中盤から始まったウィーンの芸術都市としての再開発の中で、総合的芸術としての音楽、詩、視覚的な芸術の統合を試みたこの作品は本展における芸術の超越的な性質とそこに備わる「創造性」を表すのである。
 
 一方、クリムトのこの作品に対して、アンドリュー・ロード(Amdrew Lord)による花瓶や水差し、コーヒーセットといった容器に、ニューメキシコの広大な自然や天気、光を見立てたセラミック作品(2013年)が置かれていた。この作品はゴーギャン(Paul Gaugui)の彫刻作品を引用したものであり、容器は人間の頭や顔の形をしていたり、容器の一部として装飾になっていたりする。数色重ねられた釉薬は流れるように施されており、ゴーギャンが制作したものよりもさらに手作業の跡が残されているようだが、ウィーン分離派がアート・アンド・クラフト運動やアール・ヌーヴォーに影響を受けたように、作品そのものは手工芸品でありながらも彫刻であり、人間の造形でありながら実用的な容器としても立ち現れるものである。同時に、生活の中に現れる自然現象から着想されたことは人間との不可分な世界との関わりを示そうとしているように思われる。
installation view, Photo: Jorit Aust
このクリムトの平面作品とロードの彫刻作品の組み合わせのように、展覧会の意図とは芸術の超越的な力を認めると同時に、日常の中でかい間見えてくる世界の様相を捉える芸術の本質的な部分の見直しであろう。しかし、クリムトの作品をそこに組み込まなければそれを示すことができないようなものでもあったように感じた。現代の芸術が直面しているのは、そうした本質的なことを単体で見つけることの難しさなのかもしれない。

===展覧会情報===
Aetist and Poets
キュレーター:Ugo Rondinone
会期:2015年2月12日〜4月12日
参加作家:Justin Matherly, Bob Law, Michaela Eichwald, Giorgio Griffa, Fritz Panzer, Gerwald Rockenschaub, Heimo Zobernig, Donald Evans, Andra Ursuta, Michael Williams, Fritz Hartlauer, Tamuna Sirbiladze, Andrew Lord, Gustav Klimt, and John Giorno
           

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