旅行の最初の目的地はスロベニアとの国境にあるロイブル強制収容所(Loibl Concentration Camp)であった。強制収容所というと、ナチス最大の惨劇を生み出したアウシュビッツのイメージしかなかったが、他にもヨーロッパ各地に強制収容所は存在していたのであり、「犯罪者」だけでなく「潜在的な危険分子」(この中にユダヤ人が含まれていた)として、次々に逮捕して増えていく囚人を収容する場所を確保するためには必要不可欠だったのである。オーストリアにはナチス強制収容所の中でも特に過酷な場所の一つであるマウトハウゼン強制収容所(Mauthausen Konzentrationslager)があるが、ロイブル収容所には1943年にトンネル建設のために主にフランスやポーランドの政治犯である1000人以上の囚人が連れてこられている。そのために、強制収容所は山を挟んで2箇所、南(現在のスロベニア)と北(オーストリア)に分けられており、両者はトンネルを通って車で5分程度の距離である。しかし、この2所の強制収容所の現在の保存のあり方や、そこでの死者に対する追悼の仕方は全く違う。
スロベニア側では1950年代に周囲の山を模した追悼碑が建てられ、中央に「J’accuse (I accuse)」と書かれている。跡地には当時の建物の一部が残されており、そこにはヨーロッパ全体で亡くなった人々の苗字が刻まれ、訪れた人々にこの事実を忘れないように呼びかけている。単に事実を残すばかりでなく、戦争で犠牲になった全ての人々の弔いの場所となっているのである。
一方で、オーストリア側は、更地に簡単な印が付けられ、パネルでの説明が付けられており、犠牲者の多かったフランスの財団によってトンネルの入口に小さな石板があるものの、記念碑や犠牲者の追悼のためのものは何もない。その理由の一つには、オーストリアの国民が強制収容所の直接的な被害者になっているわけではないからである。また、パルチザンからの攻撃やその後の終戦・解放の混乱の中で、北収容所の痕跡は完全に消されてしまい、収容所のあった土地は私有地として住人の手に渡ったという。さらには、当時のオーストリアとユーゴスラビアを結んでいたこのトンネルは1950年代から67年まで閉鎖されていたため、この収容所はオーストリアではまったく忘れ去られていたそうだ。この強制収容所が正式に保存対象として認められたのは、強制収容所の具体的な手掛かりが見つかった95年以降のことであり、残していこうと運動をする人がいる一方で、どこからも支援の手が差し伸ばされていないのが現状であるらしい。
このオーストリアとスロベニアとの国境は複雑な場所である。山岳地は主にスロベニア語を話すスラブ系が多く住み、一方で山を下った小さな街には主にドイツ語を使う人々が多い。20世紀の初頭にスロベニア系住民による帰属をめぐっての住民投票が行われたが、オーストリアへの帰属を求めなかった住人は要注意人物として圧力をかけられて、オーストリアに帰属するように押し付けられたのだという。当時はスロベニア語禁止などの政策が行われ、ナチス・ドイツ時代にはその迫害はさらに厳しいものになっていたようだ(現在は全ての看板や道路標識はドイツ語とスロベニア語で書かれている)。また、山岳地のスロベニア系住人は第二次世界大戦下では国家社会主義に対抗するパルチザンの強力な支援者であったため、多くがドイツ親衛隊(SS)によって殺されてしまったという歴史を持つ。
私たちが宿泊したのも、そのような状況下でパルチザンの支援をしていた家族の家で、現在は記念館として維持されている建物「Peršmanhof(ペルジャマンホーフ)」である。パルチザンの重要な拠点として機能していたこの家に住んでいた家族は、戦争が終わる直前の1945年4月に、家のなかにうまく隠れた子ども2人を残して全員が銃殺されてしまっている。家の中の2つの部屋は写真・映像や資料が展示されており、オーストリア南部のスロベニアとの複雑な関係の歴史から始まり、ナチス占領下におけるスロベニア系のパルチザンの活動を知ることができる。
1984年にしっかりとした記念館へと組織されることになったものの、オーストリアの国や州からの支援は一切ないままに、残された子どもや近隣の住人の手によって作られたために、当初は資料と家族の個人的な遺品が展示されているだけできわめてわかりにくく、また内輪の者だけによる感傷的な展示であったそうだ。その後に、この辺りの歴史に興味を持った若い世代の研究者たちが、展示をよりわかりやすい形へと改善していったわけだが、スロベニア系の住人にとって、ドイツ語を話す人々に委託することには大きな葛藤ももちろんあったという。ベルジャマンホーフは本当に深い山間部に位置しており、この険しくも美しい山々はとてつもない歴史をまとっているわけだが、それは年月をかけて一般の人々に広く知らせていく努力がなされている場所でもある。
Peršmanhofの前の様子 |
展示の様子 |
「ふるさと美術館」という名前が付けられているものの、彼が「連想的インスタレーション(associative installations)」と呼ぶ、建物に合わせて作られた彼のインスタレーション作品が展示されており、個人美術館のようなものである。彼らはリノベーションの過程でこの建物がかつて強制収容所であったことを知り、そのためナチス時代の新聞記事やこの建物に残されていた物もそのインスタレーションに加えたり、インスタレーションと区別がつかないかたちで資料が並べられていたりする。ここはそのような意味での「ふるさと美術館」であり、それがその建物の歴史と関係しているというわけである。2010年にアラミスが病気で亡くなる時に、看病をしていた元妻とその夫(同じくアーティスト)にこの城を譲渡し、彼らはアラミスのインスタレーションをそのままの形で公開しながら、時には使わなくなった部屋でパフォーマンスや音楽イベントを行いながら今に至っている。この美術館も、強制収容所がどのように現在に引き継がれているがという問題を投げかけているわけだが、私にとってはとても気分が悪くなるようなものであった。
というのも、アラミスの作品は非常に性差別的で暴力的な作品が多い。確かに、建物全体に残されたインスタレーションは興味深く、写真や洋服に残された記憶は鑑賞者にこの薄暗い城に残された血塗られた記憶へと思いを馳せさせる。しかし、儀式的に並べられたインスタレーションの多くは女性の身体に関わる、生理やその血についてナプキン、あるいは性器それ自体を取り上げたものが多く、それは骨や鳥の死骸、鉄線などと一緒に並べられている。それがいかに彼のフリーセックスの理念に基づいて構成されているとはいえ、彼の名の下で芸術作品として発表され、ナチス時代の新聞記事や強制収容所についての説明と混在させられることによって、その欲望の暴力的な側面がナチスによる暴力的な出来事と結びついてしまうように思われた。アルマンのエゴイスティックな取り組みによって、その暴力は肯定され、さらには強制収容所があったという事実をもかき消すような行為になっているようにも見えたのである。
これら私が訪れた3つの場所は、オーストリア南部の同じ地域で現在進行形で起こっている、歴史をいかに残していくのかという問題のあらわれにすぎない。芸術の実践は昔から戦争や事件の歴史と、その記憶との折り合いに関わり続けている。その記憶を継承するために、芸術家の手によってつくたれた彫刻や記念碑といったものが設置されているし、最近ではリサーチベースのアーティストたちが実際に歴史を掘り起こしながら新たな側面をそこにつけ加えようとしている。ある建物やある場所は必ず何かしらの記憶を持っているのだが、その記憶は時には容易にかき消されてしまうこともあれば、何かの意図で政治的に利用されることもある。
一方で、他者の記憶はそう簡単には私たちの身体には入ってはこない。この旅行を経て、この地方の歴史について少しは詳しくなったものの、スロベニア語とドイツ語のみで表記された複雑な記憶の集積は、異邦人である私にはなかなか理解しにくいものがあった。それは、宗教や戦争、そしてそれに関わる暴力という事実以上に、身近にいる文化を異にする人々との立場の差が目にみえないところでさまざまな亀裂をもたらしていることのようにも思われた。また、オーストリアが歴史を見直そうとしている動きにこうして実際に触れてみる中で、何度も日本のことを思い出していた旅行であった。
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